shastahealing.com  大阪と東京を拠点に『ヒーリング教室 シャスタ』を主宰。ヒーリング教室や瞑想教室を開講しています。北カリフォルニアのシャスタ山やエネルギーワークについて徒然に書いています。
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カテゴリ:物語 / 13( 7 )

13 - 穴八幡
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地下鉄東西線の早稲田駅から歩いて数分の所に、穴八幡という神社がある。
その神社に、今は亡き父と20数年前に訪れた事があった。

亡くなった父はその頃、どういう訳か、言霊を降ろせる人や、普通の人には見えない物が見える人などに興味を持っていて、僕を半ば強制的にそういう変わった人の所に連れて行こうとした。
僕はそういう処に行くのが嫌で、何か用事を作っては父から逃げていた。
だけど、いつも逃げる事は出来なくて、よくそういうお寺や神社に連れていかれた。
その連れて行かれた神社の一つが、早稲田の穴八幡だった。

そこの宮司さんの噂を、父は知人から聞いたようだった。僕はその噂を直接聞いた訳ではなかったのだけれど、父が突然会いに行くと決めたのだから、よほど凄い噂を聞いたのだろう。そこへ父は、無理やり僕を連れて行った。


空気が乾燥して吐く息が白い、寒さが身にしみる真冬だった。田舎から出てきて土地感が無い僕達は、高田馬場からタクシーでその神社に行った。僕らが住んでいた田舎には地下鉄が無くて、地下鉄に乗ればたった一駅だったのに、地下鉄に乗った事が無い父はタクシーを選んだ。

穴八幡に着いて、僕らは待合室で宮司さんを待った。二十畳くらいの待合室には、早朝だというのにもうすでに10人程の人たちが待っていた。部屋の真ん中には火鉢があって、やかんのお湯が沸いていてチンチンと音を鳴らしていた。

そこで父と1時間くらい座って、宮司さんを待った。
父は怒られた子供のように、居心地の悪そうにぶつぶつと独り言を言っては、たまに肩を動かしながら座っていた。じっとしているのが苦痛そうな父だった。

そうこうしていると宮司さんが部屋に入ってきて、僕達より先に来ていた人達の話を聞き始めた。
そして何人かの人達との話が終わりそれから僕達の番になって、父が宮司さんと話を始めた。

家族の事、一人一人の事を心配そうに相談する父。
母、姉、妹、そうして僕の事を順番に尋ねる。

宮司さんが父の相談事に対して丁寧に言葉を口にする。彼の声は威厳があって重かった。
宮司さんが家族の一人一人の事を言ってから、最後に僕の事を言った。

今のあなたの運は良くないです。人生の中で最悪の状態です。
しかし、将来は良くなるでしょう。
海外に住む事になるでしょう。そしてそれはアメリカでしょう。
それから将来・・・、神事をするでしょう。


父と私は、「神事をする」と聞いて、口をあんぐりと開けてしまった。
父は、「これは新手の勧誘に違いない。家の息子は、神社の宮司にするために育てたのではない」とでも思ったのだろうか。
「息子は絵を描くだけが取り柄で・・。神事などした事もないし、出来るとも思えないのですが」そう焦りながら言った。
「でも、神事となると、どこかお寺にでも預けた方がいいのでしょうか?」
そう言った父は、頭が混乱していたに違いない。

「神事なんて冗談じゃない。神社にもお寺にも関わりたくない」そう思った僕は、そこから逃げ出したい気分だった。
そんな僕の気持ちを察したのだろうか、宮司さんが言った。
神事と言っても、神社やお寺で修行しなくても良いんですよ。精神的に修行をして、人に道を示すような事。そういう事も神事と言うんですよ。

そう聞いて僕はとりあえず、胸をほっとなぜ下ろした。
「お寺の小坊主になって、神社の庭掃きなんて仕事をしなくてもいいんだ」
神事と聞いて、その時はそういう小坊主のイメージしかわかなかった。


そんな少し変わった思い出があった、早稲田の穴八幡。
その穴八幡にいた人に、「昔、宮司さんに、ありがたいお言葉を言われたのですが」と尋ねてみたが、その宮司さんはもう何年も前に既に亡くなられていた。


あれは何時の事だったのだろう。遠い昔、その神社の境内には、今はもう亡くなられた宮司さんと僕の父、そして僕がいた。

それは遠い昔の出来事だったのか、それとも未来の事だったのか。
その境内の真ん中に立っていると、いつの間にか時間の感覚が無くなって、透明になって消えて無くなってしまいそうな僕がいた。
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by rev-umachan | 2011-02-08 01:11 | 物語 / 13 | Trackback | Comments(0)
物語・13-手かざし
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僕が退院してからしばらくして、父が『手かざし』というのに凝るようになった。手かざしというのは、手をおでこや身体の患部に当てて痛みや重みを取るという民間治療のようなものだ。今でいうヒーリングというのに近いものかもしれない。
その手かざしというのを売りにしている宗教団体が家の近くにあって、父はその宗教団体の集まりに良く行くようになった。そして、間もなくしてすぐに母もその集会に連れて行くようになり、僕も誘われるようになった。

僕の持病が、国の難病指定されている病気だったからかもしれない。その時点の医学では完全には治らない病気だったからなのだろうか。
病院にいる医者では治せない病気。医学の限界。そんな病気を治すには、他の方法を見つけなければならない。父はそう思ったのかもしれない。
色々な難病が、手かざしで治ったり好転した。集会でそういう話を聞く父の目は真剣だった。

そうやって、父と母は『手かざし』というのをするようになった。手かざしの集まりに率先して行くようになった父。そして言われるままに集会に連いて行った母。

家の中の何かが狂い始めたのは、そんな頃だった。
父の経営していた寝具店の経営状態が急激に悪くなった。従業員の一人が店の車で交通事故を起こして彼は大怪我、車は大破してしまった。そして、店の裏にあった布団綿を打ち直す小さな工場では事故があって、大怪我をして入院する従業員も出てきた。

それから間もなくしてすぐに、母の健康状態がかんばしく無くなった。
子宮筋腫という病気が見つかり、子宮を摘出する事になった。母は1ヶ月近く入院していたのだろうか。退院して家に帰ってきた時には青い顔をしていてげっそりと痩せていた。

何がどうしてどうなったのだろう。目に見えない何か大きな物が動き出したような、そんな感覚を僕は感じた。それまで幸せだっと感じていた家庭は、いつの間にか一変していた。地に足が着いていないようなフワフワしたような感じになってしまった。

それでも父は手かざしを止めなかった。それから以前にも増して集会に行くようになった。そして不思議な事を話す霊能者がいるという噂を聞いては色々な処へ行くようになった。
その中には胡散臭かったり、気持ち悪いと感じた人達もいたのだが、言われるままに正直に人を信じてしまう父の性格だったのか、それとも母や僕の健康状態を気にしての事なのか、そういう霊能者の処に行っては、ありがたい言葉をもらったと言って帰ってきた。
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by rev-umachan | 2011-02-01 23:08 | 物語 / 13 | Trackback | Comments(0)
AZAMIさんコンサートにて (11月23日)
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その女性の周りには小さな光たちが飛び回っていて、
僕が天から光をあててあげると、光達は天へと上がっていった。

彼女に「あなたの職業は何ですか?」と聞くと、
「看護士をしています」と答えてくれた。

彼女は、今まで多くの方々が亡くなられるのを見取ってきていた。
そして彼女が世話をした人達は、亡くなられた後に小さな光となって、彼女の優しさに惹かれ、彼女を信じて寄り添ってきていた。

天からの光と一緒に上っていった小さな光達は、
優しそうで、楽しそうで、嬉しそうだった。
「ありがとう。ありがとう」と、口々に言っているようだった。

「僕がこんなヒーリングをするようになったのは、僕が13歳の時に長期入院したのが理由なんですよ」
小さな光達が彼女に惹かれたように、僕も彼女の優しい雰囲気に惹かれたようだった。
13歳の時に起きた僕の人生の転機を話し始めた。

「半年以上入院して、幾人かの人達が旅立つのを見ました。あの時、医者に成りたいと思ったんですよ。人を助けたいと思ったんです。でも、入院したせいで成績が落ちてしまって断念したんです。」
「へえ、そうだったんですか。そうでしょうね」彼女は、僕の話を丁寧に聞きながら合図地をうってくれた。優しい、ほっとするような雰囲気をした女性だった。

「あの入院をきっかけに僕の家族は、がらりと変わりました。あれから、両親は手かざしというヒーリングをするようになったし、妹は看護士になりました。そして僕は今のようなヒーリングをするようになりました。」
「へえ。そうだったんですか。そういう理由で妹さんが看護士になられたんですか」

「看護士さんは、あなただけではないのですが、亡くなって光となった人達を天へと導ける人達です。だから亡くなった後でも助けを求めて寄り添ってくるんです。ありがとうございます。皆もそう言っているようですよ」
僕がそう言うと、「そんな事言われたの初めてです。こちらこそありがとうございます」
彼女は遠慮がちに、でも嬉しそうに言ってくれた。


そんな暖かみのある出会いがあったAZAMIさんのコンサートに、公認シンギング・リンセラピスト あぎ(Aggie) さんとコラボで出展しました。

コンサートでグループヒーリングに参加された方からのメッセージがありましたので、ご紹介させていただきます。
僕らのブースに来ていただいた皆様、ありがとうございました。


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先日はAZAMIでのグループセッションを有り難うございました。
あれからすぐに帰ったのですが、車の中で主人が「すっきりした」と言っていました。
私が「それを言えば(感想として)よかったのに。」というと、ああそうかと言っていました。
感想とは何をいうのか、よくわからなかったそうです。
(JKさん)
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by rev-umachan | 2010-11-27 00:08 | 物語 / 13 | Trackback | Comments(0)
13 - 学校
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半年間以上も、学校という社会生活から遠ざかっていた。
それは13歳の僕にはあまりにも大きな出来事で、とても取り戻せないようなブランクだった。
僕は必死だった。自分自身を社会に、学校に、そして家庭に順応させるのに必死だった。

自分の回りの社会に順応させようと、あまりにも意識しすぎた為なのか、腎臓病の薬を飲んでいたせいなのか、僕の頭脳は自分の身体をどう動かせば良いのか分からなくなっていた。それはまるで、よちよち歩きの赤ちゃんが使い慣れていない手足の筋肉を、必死になりながらも頑張って使いこなそうと、ぎくしゃくしながらも動かしているような感じだった。

中学校に入学してから既に半年以上の時間が経っていた。その間、僕はずっと病院のベッドの上にいて、一度も学校に行く事は無かった。そんな状態で学校に行くというのは、精神的に結構大変な事だった。

学校の勉強についていけるのかどうか?という問題以前に、学校の雰囲気に馴染めるかどうかという問題があった。実際、学校に行きだしてから感じたのだけれど、半年間という時間を経て築き上げられたクラス内の友人関係の力配分は、僕の入る隙間を全く与えてくれなかった。僕は、クラスに馴染めないで一人浮いていた。

入院する前の僕は、家に帰ってきて勉強をしなくても学校の成績が割と良くて、優等生の方だった。それが入院して、半年後に学校に復帰した時には極端に成績が落ちていた。

それでも、入院中は暇さえあれば教科書と参考書を読んで一人勉強していたから、授業の内容を理解出来なくは無かった。もともと感が良い方だったから、半年間のブランクがあっても一ヶ月もすれば何とか授業にはついていけるようになっていた。だけど授業についていけるようになっても、クラスの中で僕はいつも孤独だった。

小学校では皆小さい頃から一緒に育って大きくなっていった。僕らが行っていた小学校は街中にあって、商業を営んでいる人や会社員の人達が多く住んでいる地域だった。だからそこに住んでいた人達は、割と同じような生活をしていたし、一緒に小学校に通っていた人達は皆、友達と呼べる間柄だった。

それが街中から少し離れた中学校に行ってから、状況が一変した。街外れにあった中学校には色々な処から通ってくる子供達がいた。商業地区からも農業地区からも子供達も通ってきていて、それまでの小学校で見る顔ぶれとは全く違かった。

小さい頃から知っている友達、始めて会う人達、見かけた事はあるけど話はした事の無い人。そんな多種多様な人達がクラスの中にいる。そんな複雑な人間関係が存在するクラス。思春期の中学生にとって、そこで自分の存在場所を確保するのが大きな仕事となっていた。
クラスの中には、複雑な人間関係、友人関係というのがあって、それを素早く分析して何処かのグループに入る。それが自分の居場所を見つける事だった。40人程しかいない小さなクラスだったけれど、その小さな場所がその時の世界の全てだった。
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by rev-umachan | 2010-09-11 23:50 | 物語 / 13 | Trackback | Comments(0)
13 - ネフローゼ症候群
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僕の持病の詳しい腎臓病名は、ネフローゼ症候群といって国の難病に指定されていた。だから、費用などは国からの援助があって、入院費用は殆んどと言っていいほどかからなかった。

腎臓というのは、体内の汚れた水分を身体の外へと出すための臓器だ。そして身体に必要な血液中のタンパク質が、身体の外へと流れ出て行くのを阻止する役目をする。それが身体の機能が低下したり、疲れたりするとその腎臓の機能が上手く動かなくなる。

ひどくなると腹水と言って体の中に水が溜まってしまい、身体中が水分でぶよぶよになったりする。僕の身体、おでこがぶよぶよになったのはこの腹水という現象が起きたからだった。
自覚症状が無いものだからさほど重要な病気だと思わない人がいて、それが元で命を落とす人もいる。現に僕の親戚の中にも同じ病気で亡くなった人がいた。

その僕の親戚の人は、僕が小さい頃一度だけあった事がある母方の異父兄弟、おじさんにあたる人だった。お人よしそうで、真面目で、家族思いの人だった、
自覚症状がほとんど無いものだから、きっと病気だとは思いたくなかったんだろう。家族思いの人だったし、家族に迷惑をかけたくなかったという思いも強かったのだろう。

最後の最後まで病院に行くのを拒んで、職場で倒れてしまった、家族が救急車を呼んだ時には、彼の身体中のいたるところが水分でぶよぶよになっていて、駆けつけた緊急看護士の人は、『こんなになるまで病院に行かないなんて、自殺行為だ』と言ったと聞いた。

僕の病気は、そんなに大変な腎臓病だと思ってなかったけれど、『命を無くす人もいるんだなぁ』と、なんとなく病気の大変さと人の命のはかなさを感じた。
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by rev-umachan | 2010-06-18 22:09 | 物語 / 13 | Trackback | Comments(0)
13 - (プロローグ) / 無縁坂
(作詞/ 作曲::さだまさし)


母がまだ若い頃 僕の手をひいて
この坂を登る度 いつもため息をついた
ため息つけば それで済む
後だけは見ちゃだめと
笑ってた白い手は とてもやわらかだった

運がいいとか 悪いとか
人は時々 口にするけど
そうゆうことって確かにあると
あなたをみててそう思う

忍ぶ 不忍 無縁坂 かみしめる様な
ささやかな 僕の母の人生


いつかしら僕よりも 母は小さくなった
知らぬまに白い手は とても小さくなった
母はすべてを暦に刻んで
流して来たんだろう
悲しさや苦しさは きっとあったはずなのに

運がいいとか 悪いとか
人は時々 口にするけど
めぐる暦は季節の中で
漂い乍ら過ぎてゆく

忍ぶ 不忍 無縁坂 かみしめる様な
ささやかな 僕の母の人生


(http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND49673/index.html)
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by rev-umachan | 2010-06-13 23:41 | 物語 / 13 | Trackback | Comments(0)
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友人が癌で他界したと言う。
話をしてくれた彼が、その友人の話をした直後の事だった。
「生きるという事。死ぬという事の意味は、本当は同じ事なのだと思います」
何処からとも無く言葉が、頭の中に聞こえてきた。

「人間は死んだ後、どうなるんでしょう?」
彼が私にそう尋ねた。
その答えを本当に知りたいという感じで僕に尋ねてきた。

僕は頭の中で瞬時に考える。
生きるという事、死ぬという事について。
そして、神という存在について。

僕の口からは思いがけなく、蟻についての話が出てきた。


人間は蟻のような存在だ。
蟻はちっぽけな存在で、踏み潰されて死んでいっても気にもされない。
一匹の蟻は、一つの大きな巣に属している。
その巣に住む蟻達は、皆で共有する大きな意識に属している。
一匹の小さな蟻は、実は大きな蟻の意識の一部なのだ。
一匹の蟻が死んでいっても、その蟻のした事は大きな意識の一部として残り、他の蟻の行動に影響を与える。

インド、マレーシア、フィリピン、インドネシア、台湾などの国々の友人達と話をして解ったのだけれど、日本人は思いのほか海外で尊敬されている。
それは、太平洋戦争で彼らの為に命を落としていった名も無き若き日本兵達の心が、今も彼らの心の中に生きているからなのだ。

人は死んだ後、魂である意識が身体を離れ、大きな意識の元へと帰って行く、そしてそれは神と呼べる存在なのではないだろうか。


僕は、その時まで自分でも思っていなかったような、そんな話をした。
もし相手が彼でなかったら、そして彼の持つ問題が違ったものだったら、もし声が聞こえてなかったら、僕はきっと違う答えを言っていたのだろうと思う。しかし、その時はその答えが一番合っていたように思えた。
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by rev-umachan | 2010-06-07 18:23 | 物語 / 13 | Trackback | Comments(0)