shastahealing.com  大阪と東京を拠点に『ヒーリング教室 シャスタ』を主宰。ヒーリング教室や瞑想教室を開講しています。北カリフォルニアのシャスタ山やエネルギーワークについて徒然に書いています。
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何日か前、私がレストランで食事をしていた時の事だった。私はそこでピザとサラダを食べていたのだと思う。私が食べ始めるとすぐに、私の席の後ろ、約10メートルくらいの処が何やら騒がしくなってきた。私は気にせずに食事を続けていたのだけれども、それから10分位すると救急車のサイレンの音が聞こえてきた。そして、レストランの中に数名の緊急救命士がどやどやと入ってきた。

「これではゆっくりと食事も出来ない」と思って、私は思わず後ろを振り向いた。すると、緊急救命士達が一人の男性を囲んでいるのが見えた。どうやらその男性は、食事中に気分が悪くなったようだった。その時、彼にはまだ意識があった。彼の奥さんは、緊急救命士が処置する様子を後ろから心配そうに覗いていた。そして子供だと思える小学生位の男の子が、落ち着きが無い様子で立っていた。「大変な事が起きてしまった」と感じたのだろう。その小さな男の子は、父の死を考えたに違いない。

その男性の人は、椅子に座ったまま首をゆっくりと動かしていた。どうやら気分が良くなったようだった。緊急救命士の人達もそう思ったのだろうか、彼らは持ってきた機材を片付けて救急車に戻ってしまった。
そして、男性の人と彼の家族がレストランに残された。その数分後の事だ。私が振り向いてその男性の姿をちらっと見ると、その男性の意識はもう無かった。彼の奥さんが、「大丈夫?大丈夫なの?」と大きな声で話しかけているのだけど、男性はもう何も反応しなくなっていた。

「このまま彼を放置していたら、彼は死んでしまうだろう」と、私は感じた。
「此処に居合わせたのも何かの縁だ。何とかしてあげなくては。私に出来る事と言ったら瞑想だ。彼の為に瞑想をしてあげよう。」と私は思って、彼の為に瞑想をしてあげる事にした。
そして、そのまま目を瞑って瞑想を始めた。

心を静かに落ち着かせて、自分の心を見つめた。そして、意識が無くなってしまった男性を捜す。すると、すぐに彼を見つける事が出来た。その時にはもうすでに、彼の意識は彼の身体を離れていた。
「このままでは、彼は死ぬ準備が出来ていないまま死んでしまう。」と思った私は、彼の横に立って大きな光を見せてあげた。死んだ後にその光に向って行けば、迷う事無く成仏する事が出来るはずだった。

「さあ。この光はあなたを導いてくれる光ですよ。どうしますか?」と、私は光の方向を指差して言った。そして横にいる彼の方を見ると、もうそこに彼はいなかった。
それは、「ああ。あなた。意識を取り戻したのね。」と、彼の奥さんが大きな声で言うのとほぼ同時だった。彼は私が光りを見せた事によって死を実感して、死ぬよりも生きたいと思ったようだった。そして瞬時に彼の身体へ戻ってしまった。

彼の意識が戻っても、私の瞑想は続いた。そこには、彼の他にも幾つかのエネルギー体がふわふわと浮遊していたからだ。どうやらそのエネルギー体が、彼の意識を磁石のように引き寄せたようだった。私は、その浮遊しているエネルギー体を空の彼方へと追い出して、瞑想を終えた。

後ろを振り向いて男性を見ると、彼の意識はしっかりと彼の身体に戻ってきていた。目を開けてキョトンとして、「何が起きたのか解らない」という顔をしていた。それでも、私が見せた光はまだ覚えているようだった。「不思議な経験をした」という表情をしていて声が出せないでいた。
そして、「あなた。ごめんなさい。ごめんなさい。」と大声で泣いている奥さんは、旦那さんが意識を取り戻して心の底から嬉しそうにいた。彼女は、今まで彼にしてしてきた事を謝っていた。きっと二人の間にはそれまで、色々な事があったに違いない。夫婦喧嘩などがあったのだろうか。男性にはそういうストレスがあって、心底疲れていたのだろう。だからこういう事になってしまったのかも知れない。

しかし、私がこういう場面に居合わせるというのはただの偶然ではないような気がした。私がそのレストランで食事をしたのはその時が初めてだった。何か大きな力が作用して私をその場所に居合わさせたようにも感じた。
「私は何故あの場所にいたのだろう。あのレストランであの男性に会う事に何か意味があったのだろうか。」と、私がその時に其処へ居た、という事の意味について考えずにはいられなかった。
そして人事ながら、「あの男性はこれからどう生きるのだろう。」と、思わずにはいられなかった。一度あの光を見てしまった人が、これからも以前と同じような人生を生きれるとはとても思えなかった。
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by rev-umachan | 2009-03-25 03:12 | 個人セッション(ストーリー) | Trackback | Comments(1)
チベット死者の書
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知り合いのテルさんが他界したちょうど同じ時刻、私は「チベット死者の書」というDVDを観ていた。死者の書というのは、死んでゆく人に対して読むお経のようなものだ。だから知らなかったとは言え、私はDVDを観ながら死んでゆくテルさんにお経をあげていたようなものだった。偶然とはいえ、今思えば不思議な偶然だった。

人間の魂は、川の中を流れる水のようなものだ。海に流れていく水は、やがて空気中へ水蒸気となって溶けてゆく。そして天上で雲となり、雨や雪となって再び地上に戻ってくる。そして寒い時には氷となって固体へと形を変える。そして氷はやがて溶けて、再び水となり川へと流れ、命の源の海へと帰ってゆく。
人は輪廻転生を繰り返し、身体を何度も変えて再びこの世に生まれ変わる。それはまるで、形を変えて常に地上を流れてゆく水のようだ。
死を迎えると、人の意識は身体を離れ、大自然のゆったりした水の動きのように、ゆっくりと空気中に溶けてゆく。そしてそれは小さな光りとなって、やがて大きな光りの本へとゆっくりと帰っていく。それはまるで水が命の源の海へと帰ってゆくようだ。


「魂は輪廻転生を繰り返して、この世に何度も生を受ける。人は死ねばそれで終わりではない。魂は何度でも生まれ変わる。それはまるで、古くなった服を捨てて、新しい服を着るような事です。あなたは、服が古くなったら新しい服を着ませんか?服を着替えるのと同じように、私達は古くなった肉体を捨てて、新しい肉体を手に入れます。それは楽しくて、喜ばしい事なのです。」
(DVDの中でインタビューに答えるダライラマ法王猊下)

地上に生きる全ての人に、死は平等に与えられる。老人や子供、お金持ちに貧乏な人達、死は全ての人に同じように与えられる。そして死が与えられるのと同じように生も与えられる。人は、死を向える事によって生を受ける事が出来る。

しかし、輪廻転生というのがあると解ってはいても、私は死への恐怖が全く無いとは言えない。「死を迎えた後には、何があるのだろう。死は痛みを伴うのではないだろうか。」という、恐怖や恐れの気持ちを完全には拭い去れないでいる。そして、「残していく友人や家族はどうなるのだろう。」という、悲しみ、怒り、寂しさといった複雑な感情が出てしまう。

私と同じように「死への恐怖」を感じる人はきっといる筈だ。そしてすでに死んだ人の中にも、死への恐怖を持つ魂がいる。それらの魂はしばらく死を受け入れられずに、死んでからも3日間は身体の周りに留まると言う。そういう時にチベットでは、チベット僧が死者の耳元で「死者の書」を読んであげるのだそうだ。
「死が終わりではない。輪廻転生があり、あなたは生まれ変わってくるのだよ。」という意味の事を死者に聞かせてあげる。
そして人が死んでから49日経った時に、魂はこの地上に再び新しい身体を得るための準備が出来るという。

「あなたが生まれた時、あなたが泣いて、世界が喜ぶよ。
あなたが死ぬ時、世界が泣いて、あなたが幸せで喜ぶよ。」
(DVDからの引用)

ベッドの上で死を待つだけの人に、「あなたは、一息一息、ゆっくりと意識して息をしなさい。そうすると、少しずつゆっくりと大きな光りの本へ帰れますよ。」という言葉を語りかけるボランティアの人の言葉がとても印象的でした。チベット僧でなくても誰でも、死んでいく魂に声をかけ、死への恐怖を拭い去って安心させる事が出来たらどんなにか良いだろう。

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DVD NHKスペシャル チベット死者の書
商品番号 12947A1
人はどこから来て、どこへ行くのか…。ここに描かれる生命は、川の流れのように途絶えることがない。

■ 第1回 ドキュメンタリー 仏典に秘めた輪廻転生(りんねてんしょう)
■ 第2回 ドキュメンタリードラマ 死と再生の49日
http://www.nhk-ep.com/shop/commodity_param/ctc/+/shc/0/cmc/12947A1
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by rev-umachan | 2009-03-23 08:32 | チベット仏教 | Trackback | Comments(1)
北京原人
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1929年、北京市郊外にある周口店で北京原人の頭蓋骨の化石が初めて発見された。そして、狩猟や採集の為の道具、そして火を使っていた痕跡も発見された。それは、北京原人が猿人(ピテカントロプス)から現代人(ホモサピエンス)へのちょうど中間に位置していた事を意味し、動物から人間の文明世界へと進化する過程にいたという事を意味する。
進化論で有名なダーウィンは、「ヒトはサルから進化した」と断言していたが、北京原人の発見によってようやく世界に認められるようになっていった。北京原人の発見は、人類の進化の謎を解明するのに、きわめて重要な意義を持っている。

周口店北京原人遺址博物館という処に、北京原人の化石が展示されているのは良く知られている事だ。しかし上野にある国立化学博物館に、北京原人の頭蓋骨の一部、そのレプリカが展示されている事は、あまり知られていないと思う。1929年に北京原人の頭蓋骨が発見され、そのレプリカが日本人の手によって製作された。
本物の頭蓋骨は日中戦争の間に紛失されてしまったので、そのレプリカは、新たに北京原人の頭蓋骨が発見、公開されるまでの間、まるで本物の北京原人の様に丁寧に扱われていた。

もう何年も昔になるのだけれども、上野の国立科学博物館で展示のアルバイトをしていた事があった。博物館で展示されている化石や人骨などの埃や汚れを払って、新しい展示ケースの中に入れるアルバイトだった。アンモナイトの化石や恐竜の化石、そして人骨などを手に取って新しいケースに入れていた。それまで興味が無かった唯の古ぼけた化石だったけれど、不思議なもので直接手に触ってみると急に興味が湧いてきた。アンモナイトの海の泳ぎ方や、人間の頭蓋骨の測定の仕方など、働きながら興味深い事柄を勉強させてもらった。

しかしその中でも一番印象に残っているのは、北京原人の頭蓋骨のレプリカだった。その当時は、現存する世界で唯一の北京原人のレプリカだった。今でも、自分の手の上にずしりと重かった感触は忘れない。恐らく石膏で製作されていたので、重いのはそのせいだったのだろう。ひっくり返して中を見ると、旧日本陸軍に属していだだろう日本人の方の名前が入っていた。北京原人の歴史の重みと重要性を思うと、思わず自分の手が震えてしまった。

『50万-20万年前に存在したとされる北京原人が77万年前にも生活していた・・。』
人類の祖先(ホモエレクトス)の登場は、200万年前後のアフリカだと言うのが定説となっている。ジャワ原人や北京原人はこのホモエレクトスを起源としている。そして、旧人のネアンデルタール人も同じ流れだ。

そしてホモエレクトスを起源とはしているが、旧人や原人とは異なる流れを持つと言われている現代人(ホモサピエンス)の登場は10-20万年前と言われている。旧人や原人達は、数万年前まで生存していたと言われているのだから、現代人達と同じ時期に共存していたらしい。しかし何故、旧人や原人達が死滅してしまったのかは、今でも大きな謎となっている。

80万年前に北京原人が生活していたという事は、既にその頃には世界中の各地、いたる処で旧人や原人達が生活していた可能性が高い。その原人達が住んでいた場所に、後から現代人が進出していった訳なのだが、何故共存は出来なかったのだろう。原人の遺跡には、現代人達と戦いをした跡がいたる処で発見されている。現代人には、旧人や原人を死滅に追いやらなければいけないような本能、あるいは理由があったのだろうか。
しかし理由はどうであれ、旧人や原人達は私達の直接の祖先では無いとしても、彼らの多くの尊い命があって今の現代人が存在している。彼らは別種だとしても、彼らがいたから亜種である現代人が発生したのだと私は信じる。

Excite エキサイト : 芸能ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090313-00000344-yom-sci
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by rev-umachan | 2009-03-14 15:51 | 日常の情報 | Trackback | Comments(0)
「時計仕掛けのオレンジ」を観て (絵7)
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「時計仕掛けのオレンジ」

原作: アントニイ・バージェス
出演: マルコム・マクドウェル
監督: 製作・監督・脚本:スタンリー・キューブリック
公開: 1972年

(ストーリー)
暴力とセックスに明け暮れる生活をしていた主人公のアレックスは、殺人を犯してしまい、仲間の裏切りもあって刑務所に入れられてしまう。

「何とか早く出所したいんです。そして、残りの人生を良い行いをして過ごしたいんです。」と、刑務所にいた神父さんに話しかけるアレックス。

「良い行いというのは、うわべだけじゃ意味が無いんだよ。本当に良い行いというのは、神様がさせるものなんだよ。心の内側から沸き起こる気持ちが、良い行いをさせるものなんだ。」と、アレックスの心の中を見透かしたように話す神父さん。

そしてアレックスは、二度と犯罪をしないようにと洗脳される。その洗脳の方法とは、暴力的な映像や、戦争の映像を長々と、嫌というほど見せつけられるというものだった。彼は強制的に「映像」を見せられる事により、暴力やセックスに嫌気を感じ、暴力をふるいたくても出来ない体になってしまう。

しかし、自分の内側から湧き出た「絵」を見て悟る訳ではないので、彼はまるで社会の一部にはめ込められる機械のようになってしまう。その姿はまるで、自分の意思とは関係なく動く、「時計仕掛けのオレンジ」のようだ。そして出所したアレックスは、以前暴力をふるったホームレスや、昔の仲間達から殴る蹴るの復讐をされてしまう。

映画のラストシーンでは、彼は以前と同じように、自分の意思で考えたり行動したり出来るようになるのだが、以前の暴力的な人間に戻ってしまう。
それはあたかも、人間や社会の中に存在する悪は、いつまでも無くならないという事を暗示しているかのようだ。
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スタンリー・キューブリック監督作品の、「時計仕掛けのオレンジ」は、30年も前に創られた映画なのだが、今観ても新鮮さを感じる。

人間が以前犯した罪は、決して消すことが出来ない。自分がどんなに変わっても、それはカルマとなり自分に降りかかってくる。それはあたかも、「自分が犯した罪は、将来、必ず自分に帰ってくる。」という事を物語っているかのようだ。

以前、罪を犯したアレックス。彼は刑務所で洗脳され、悪い行いが出来なくなる。
しかし、以前被害を被った人達は忘れなかった。彼が無抵抗なのを良い事に、殴る蹴るの復讐をする。悪人は主人公のアレックスで、被害者だった人達は善人のはずだったのに、そこで立場が一気に逆転してしまう。私はそこに、人間の醜い嵯峨というのを見てしまう。

観る人によって色々と異なる事を考えるとは思うのだけれども、私はこの映画を観て、「人間の持つカルマ」という事について思いを巡らせてしまった。

ある人が、前世で悪い行いをしたとする。そしてその人は死後、あの世で「良い行いをするんだ。」と決心したとする。そして彼は輪廻転生して、次の世で、「以前悪い行いをした相手」に再び出会う。
その時、彼は復讐されてしまうのだろうか。「良い行いをするんだ。」と心に決めても、それは周りの人達にとっては許される事ではなく、復讐されてしまうのだろうか。

もし前世での悪い行いの為に復讐されてしまったなら、その人は前世の記憶が無いはずだ。だから、何故そのような悲劇に会うのか解らないだろう。そして同じく、きっと復讐する人にとっても、前世の記憶が無いため、何故そのような事をするのか解らないでいるだろう。それでも、理解出来ないなりにも、どこかにそれ相応の理由(カルマ)があるから、復讐をしたりされるのであって、偶発的にそれらの事が起きるのでは無い。

誰でも知らず知らずの間に、多かれ少なかれ罪を犯している。そしてそれがカルマとなり人に対して犯した罪が、いつか自分に返って来る。それと同じ様に人に対して良い行いをしたら、それもいつか自分に返ってくる。それらのカルマは、自分では理解出来ない、まるで複雑に絡み合った螺旋のようだ。
そう考えていくと、人というのはまるで、「カルマの中に閉じ込められながら、生かされている。」のだとさえ思えてくる。
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by rev-umachan | 2009-03-12 16:27 | | Trackback | Comments(0)
種と芽 (絵6)
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植物の芽は、地中にある種から生まれてくる。
種が無い地面の中からは、芽は生まれてこない。

当たり前の事だが、植物は種があって、そこで初めて芽が地上に出てくる。
しかし、地中にある種は、地表からは見る事が出来ない。
目えるのは、地表に出てきた芽だけだ。


植物の種と芽の関係と同じ様に、物事とは、何も無いところから発生したりはしない。
何か原因となる事があり、そこで初めて物事が発生する。
植物が育つのと同じように、物事とは、原因となる種があって初めて芽が生まれて出てくる。そしてやがて大きく育ち、良い結果、あるいは悪い結果とそれぞれの実を結ぶ。
その時、目えるのは結果となる大きく育った芽であり実だ。しかし、原因である種は見えにくい。

原因である種とは、すでに過去に起きてしまった事柄だ。
だから、消してしまう事は出来ない。
種は、表面には出てこなくて見えないかも知れない。しかし種がある限り、結果となる芽は、必ず地表の上に出てくる。

もし芽が大きく育った時、悪い結果を生むと解っていれば、芽が出ないで欲しいと思うのは当然の事なのかも知れない。
しかし原因となる種がある限り、結果となる芽は生まれてくる。
私は、その芽が大きく育ち、やがて大きな悲劇を生むのを、ただじっと見ている事しか出来ないのだろうか。

「芽が大きくなって育つ前につまんでしまう」という事が出きると聞いた。
地表に生えてきた芽が、大きく育って悲劇となる前に、つまんで取って捨ててしまうというのだ。

たとえば、悲劇が起きそうな人間関係を、事前に予知する。
そうして、その人間関係をすみやかに解消してしまう。
恋人や友人なら、すみやかにその交友関係を解消するというような事なのだろう。

しかし人間関係を解消しても、全ての問題が解消した訳ではない。
「芽」をつまんで取ってしまっても、「種」は地面の中に残っている。
「種」がある限り、「芽」は次々と地面の上に出てくる。

嫌いな人と人間関係を解消したと思ったのに、再び出会ってしまう。
嫌な物事には、何故か次々と出会ってしまう。
そのような現象が起きてきてしまうのは、原因となる種があるからなのだろう。

地表に出てくる「芽」を、次々とつまんで取って捨てていく。その行為を繰り返す。
そして、自分の身に悲劇が降りかからないようにしてゆく。
それはまるで、本来、種と芽の因果関係の間に居るべき自分を、その関係の外に出してしまうかのようだ。そして自分自身を、映画を見るように遠巻きに物事を見る状態にさせてゆく。
しかしそれでは、根本的な問題解決にはならない。複雑に絡み合った種と芽の因果関係を解決する、という事にはならない。
だけれども、この方法はこれで、悲劇から自分の身を避ける一つの方法なのだろう。


原因となる種がある限り、結果である芽は必ず生まれてくる。
その芽は、輪廻転生をして次の生に変わったとしても、必ず生まれてくる。

生を繰り返す度に、結果である芽は何度でも生まれてくる。
そして人は、生を繰り返す度に悲劇を繰り返す。
そういう現象を、「カルマの中に閉じ込められる」と言う。

何度も何度も、原因も解らずに同じ過ちを繰り返してしまう。それはまるで、結果である芽のみを見て、原因である種を見ていないかのようだ。
もし、原因となる種をよく見て分析する事が出来たら。そして、そこから生えてくる芽に正面から向き合える事が出来たら・・・。

過去に起きてしまった事は仕方がない。
もう既に起きてしまった事は、変える事が出来ない。
しかし、これから起きる事は変える事が出きるはずだ。

原因である種を、正面から見つめて解決してゆく。
そして、これから将来に起きる事を変えてゆく。

それは、痛みを伴う事なのかも知れない。
悲しくて、涙がとめどなく流れてくるような時もあるのだろう。
自分自身へのプレッシャーで、押しつぶされそうになる時もあるだろう。
むしろ、死んでしまった方が楽だと思うような、苦しい事に出会う時もあるかも知れない。

それでも、そうしなければ物事は解決しない。
そうしなければ、私は前に進む事が出来ないという気がする。
今は、この試練が私自身を鍛えてくれるのだと、唯、自分を信じて前に進むしかない。
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by rev-umachan | 2009-03-04 16:02 | | Trackback | Comments(3)