shastahealing.com  大阪と東京を拠点に『ヒーリング教室 シャスタ』を主宰。ヒーリング教室や瞑想教室を開講しています。北カリフォルニアのシャスタ山やエネルギーワークについて徒然に書いています。
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残された言霊
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小さい頃は神様がいて、全ての事を叶えてくれるのだと思っていた。カソリック幼稚園に通っていて、キリストの十字架やマリア様がいる祭壇に一人残ってお祈りしていた頃だ。生というのは理解出来ても、死というのが理解出来なかった。

家族の中で一番先に死を迎えたのは、ひいおばあちゃんだった。幼稚園生だった私は彼女の死が理解出来ないで、いつまでも寝ている彼女の布団の中にもぐり込んで起こそうとした。

それから時が経って、おじいさんが死んで、おばあちゃんが死んで、そして父が死んだ。父は60歳で亡くなって、私は30歳だった。その頃にはようやく「人の死」について何となく解りかけてきていた。父が亡くなった時は、私は葬式の喪主をしていた。忙しく雑務をしていたせいか、ゆっくりと父の死について想う事が出来なかった。

それが時間が経って何年も過ぎてみると、想えるようになった。それは父の死について想うというよりは、彼の生き方について想えるようになったといった方が正しかった。父の口から発した言葉がそのまま私の心の奥に、まるで録音したかのように残っているのに気がついた頃だった。

父が亡くなってから、何人かの知人の死というのを経験した。知人というのは家族でも親戚でもない、赤の他人だ。それなのにその亡くなった知人の中には、恩師と呼べるようなお世話になった人達がいた。そして彼らが私の恩師だったという事は、彼らが亡くなった後になって解るようになった。父が私に残した言霊と同じように、彼らの言葉も私の心の深い処に残るようになった。
そんな出会いと別れを経験して、そして残された言葉を想いうかべて、死というのはこういうものなのかもしれないと思えるようになった。
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by rev-umachan | 2010-01-30 23:37 | 日常の情報 | Trackback | Comments(0)
ゴールデン ゲートパーク
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サンフランシスコにはゴールデン ゲートパークという全長5キロもある大きなパークがある。人工的に造られたパークとしては全米一の大きさだそうだ。その公園が出来る前は、ただの大きなだだっ広い砂浜だった。ボランティアで公園整備をした友人が言うには、「30センチも掘ったらその下は砂だったよ」と言っていた。ゴールデン ゲートパークはまさに砂上の公園で、長い時間と多大な労力とお金を費やして造られた人工公園なのだ。

その公園には、霧が西側の海から朝となく夜となく流れてくる。霧はパークの中を流れ、草木に水分を与え、活気を与え、命を与える。霧が漂う中、パークを一人歩くと自分が周りの空気に溶け込んでいって、草木が話かけてくるかのような錯覚さえ覚える。

そのゴールデン ゲートパークへ久しぶりにへ行ってきた。その公園へ行ったのは本当に久しぶりで、最後に訪れたのは何年前だったのだろう。きっと数年前にパーク内で行われた、サイキック フェアーという催し物に参加した時以来だったに違いない。それだけ長い間訪れて無くてもパーク内の景色は殆ど変わってなかった。

十年以上昔、パークの近くに住んでいた事があった。その頃、何かある度にパークの中を意味も無く歩き回ったのを思い出す。
初めてこのパークに来たのは20年も昔の事だった。それから私には色々な事が起きては消えていった。パークを歩いていると、その20年の間に起きた様々な事柄が頭の中を駆け巡った。

20年も昔、東京のアパートを引き払って荷物を田舎の両親に預けに行った事があった。荷物を置いて東京へ帰る時、涙が流れてきたのを思い出す。自分の感情が理解出来なくて、何故涙が流れているのさえ解らなかったあの頃。
アメリカに来た当初も日本を思ってこのパークを一人歩いていた。パークを歩くと何故か心が休まって、パークがあって良かったと思った。

もうあれから20年も経ってしまった。あの頃は、まさかこんなに長くアメリカに住むとは思ってもいなかった。
そんなに長く住んでいると、この国が私の祖国ではないかしらという錯覚さえ覚えてくる。空気が土地が水が、そして人々が自分の生活の一部となっているのに気が付く。「私のセッションしてあげたあの人は今頃どうしているかしら」とか、「私が教室で教えた人は今頃大丈夫かな」などと思う相手も英語で意思疎通していた人達だ。

そんな感じだったから、もう日本は私にとっては異国になっていた。一年に一回帰るか帰らないかの日本だ。ひどい時には、5年に一度日本に帰えるような事もあった。だから自然と日本にいる友人も減ってくる。

しかしそんな私が去年は、日本に5回も帰る事になった。急に日本が近くなった。
「日本じゃ私の求めている事が出来ない」そう思って日本を飛び出したのに、アメリカの生活で行き詰っていた。それを打破するのにはやはり日本なんだと深く感じた。やっぱり私はどこか深い処では日本人なんだ。日本の為に働きたい。日本人の為に活動したいと思った。そして日本から「日本に帰って来い」というメールを送ってくれる友人達。日本を活気づかせようとしている人達が私を待っていた。

何度か日本に行って友人達と供に時間を過ごす機会があって、私の気持ちは決まった。
http://umachan.exblog.jp/11642769/
http://umachan.exblog.jp/11677322/
http://umachan.exblog.jp/11736225/
http://umachan.exblog.jp/11736489/
http://umachan.exblog.jp/11827014/
http://umachan.exblog.jp/11858173/
http://umachan.exblog.jp/11859173/

「日本に帰る」
そう決めて、行動に移した。新車を売って、要らない荷物を出来るだけ処分した。
ごみを捨てようとした時、手が滑って玄関に要らない書類が散らばった時があった。その時、何故か涙が流れた。その時の私にはもう何も無かった。車も荷物も貯金も、住む場所さえ無かった。20年間アメリカに住んでいて、形になって残るものは何も無かった。私の20年間のアメリカ生活は一体なんだったのだろう。急に全てのことが無意味に思えてきて、涙が流れてきた。

そんな何も無い私だったけど、日本には私を待っている仲間がいた。それだけがはるか遠い彼方に、私を導いてくれる小さく燃えて輝くろうそくの炎のように思えた。
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by rev-umachan | 2010-01-29 21:23 | 日常の情報 | Trackback | Comments(0)
物事が動く時
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何かが動く時というのは、どこか神がかりのようなところがあって、あれよあれよと言う間に人と繋がって新しいエネルギーが生まれてきて、物が創り出されていくんだよ。まるで君が今しているヒーリングのような神がかりのような事が、昔の僕には起きていたんだ。それは「何かをしたい」という気持ちがあってこそ出来るんだと思う。でも今の僕にはその「何かをしたい」という気持ちが無いんだ。

これではいけないと思って、自分を追い詰める為に、会社を辞めたんだ。そうしないと自分は駄目になっていくような気がしたんだ。会社での仕事は、自分にとっては楽で、それでも高額な給料を貰っていて、毎日会社と自宅との往復で、自分で勉強しようという向上心さえ出てこなかった。このままじゃ自分は腐っていくと思ったんだ。
それで会社を辞めて、自分を追い詰めて、自分の為の勉強をしようと思ったんだ。


そう言った友人は、私の十年来の仕事仲間で、良き理解者だ。常に新しい物を作り出すシリコンバレーという地で働いて暮らしていく厳しさはお互いに十二分に承知している。私には彼の気持ちが自分の事のように理解出来た。

シリコンバレーは常に新しい命、エネルギーを必要としている。常に若い技術者達が世界中からやって来て新しい技術を開発する。そしてその新しい技術に投資家達がお金を投入していく。それはまるで、新しく作られた肉体や血管に新鮮な血を供給しているかのようだ。

其処に住む技術者や労働者建ちは、常に新しい技術を勉強しなくてはいけない。そうして彼らは、いつしか何の為に勉強するのか、何の為に働くのか解らなくなってしまう。優秀な技術者達がバレーを後にするのにはこういう理由があるのだ。しかし、疲れて古くなった技術者が去っていっても、新しい技術者達は次々とバレーにやって来て供給される。それはまるで古くなった車のパーツが捨てられて、新しいパーツに交換されていくかのようだ。

私は交換の効く機械のパーツじゃない。血の通っている生きている人間なんだ。
そう思って、自分にしか出来ない事を見つけようとした。それが数年前の私だった。そしてあの時が私の転機になった。そういう転機の時というのは誰にでもやってくるものなのだと思う。そしてその転機の時が今の彼にやってきた。何かを模索して動こうとしている彼に、新しい何かが動き出そうとしているのを感じた。
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by rev-umachan | 2010-01-27 21:35 | 日常の情報 | Trackback | Comments(0)
サイキック コミュニティ
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30年程昔のサンフランシスコの街では、サイキック活動が禁止されていた。現代の魔女狩とでも言うものなのだろうか、街中では手相、タロットカードなどを使ってのリーディング、レイキなどのヒーリング、それら全てのセッションが全く出来なかった。もし街中でそのような活動をしている人がいたら、即刻逮捕されて牢屋の中へと入れられ、高額な罰金を払わなくてはいけなかった。

その為、多くのサイキック達は、対岸のバークレーや、南側のサウスベイなどへと移り住まざるをえなかった。そして街の外で、細々と占いやサイキック活動をしなくてはいけなかった。

そういう時代だったものだから、必然と彼らは新しいグループを組むようになった。皆で集まってサイキックコミュニティを作る事によって、その時代の法律に対抗しようとした。その時に設立されたグループは幾つかあって、その中の幾つかは30年以上経った今でも健在だ。皮肉な事に、サイキックを禁止する為の法律が、逆に彼らをまとめてグループを作らせる事になった。

その今でも健在なグループの一つが、バークレー サイキック インスティチュート(Berkeley Psychic Institute)と言って、私が集っていたグループだ。別に此処へ集るようになった深い理由は無く、たまたま私が住んでいた近所にあったというだけなのだが、今思うと偶然にしては出来すぎていたと思う。

私はこのコミュニティで数年間お世話になって、かなり濃い時間を過ごす事が出来た。今思うと本当に色々な出来事があったと感慨深く、その時の色々な記憶が頭の中に蘇ってくる。

そのコミュニティを離れて日本に行く事になったのだけれども、今でもそのコミュニティの事は頭から離れない。それどころか、一人になって初めてコミュニティの大切さを肌に感じた。

いつかはコミュニティを離れて、自分一人で活動しなければいけない事は解っていた。それは、今まで皆で分担してやってきた事を、全部自分でしなければいけないという事を意味していた。それは武者修行であって、自分自身を鍛えるという事だ。でも自分自身が弱くて、自分の足でしっかりと立っていなければ、大きな波にのみこまれてしまうという事をも意味している。

どんなに自分自身をしっかり持っていると信じていても、やっぱりどこか自分に甘い処があった。今日、友人からヒーリングを受けてそう感じた。コミュニティというのは本当にありがたい。ヒーリングを受けていて、何も言わなくても痛いところ処置してもらっているのが解る。やはり長年お互いにヒーリングをしあっていた仲間だ。相手がどんな状態なのか、すぐに解る。いつかこんなコミュニティが日本に出来ないものかと秘かに期待してしまう。
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by rev-umachan | 2010-01-16 05:55 | 日常の情報 | Trackback | Comments(0)
旅立ち
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まるでそこに居た人々それぞれが、森の妖精になったような夜だった。
そこに居たほとんどの人は、初対面だった。彼らは、森の妖精に引き寄せられるように川辺のキャンプ場へと導かれ、そこで火を焚き、夕食を食べ、酒を飲んだ。

いつしか雲に隠れていた十七夜の月が顔を現してきて、森を青白く照らし出す。
そうして木々の陰に隠れていた森の妖精たちは、楽しそうな宴の笑い声に引きよされて火の周りへと近づいてきて、皆に混じって笑いの輪へと入り込んでくる。

悪戯好きの妖精たちの仕業か。共通する話題が、幾つも幾つも、これでもかと言うほど出てくる。こうなりゃ腹を抱えて笑うしかない。

まるで夢のような森の宴が終わり、翌日の朝。皆はそれぞれの道を目指して旅立たなくてはならない。なごり惜しいシャスタの朝。空には飛行機雲がそれぞれの道を示していた。
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by rev-umachan | 2010-01-15 14:15 | シャスタ ヒーリング | Trackback | Comments(0)
なじみの店
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今日、サンフランシスコにあるなじみの定食屋へ行ってきた。この店に行くのは何年ぶりだったのだろう。昔の日記に良く出ていた「サンフランシスコのオーガニック日本食の店」だ。ここのお店のご主人はエネルギーに対して敏感で、ヒーリングや宇宙人の話を良くしてくれた。以前、このお店の一画をお借りしてでセッションをさせていただいた事もあった。

ちょうどその一画はトイレの前にあったので、トイレ待ちのお客さんを捕まえては無料でリーディングをしていた。無料と言ってもお店の方からは、注文もしていないのにおまけの食事がわんさかとテーブルの上へとやってきた。お店としては、馴染みのお客さんへのサービスの一環としてのリーディングだったようで、お客さん達も喜んでいて「次はいつ来るの?」と、期待して聞いてきていたものだ。

そこのお店のご主人と、ひさしぶりに話をした。彼女の顔は生き生きししていて、まだまだ元気に働けるという感じだった。何年かぶりに食べた「ギンダラ定食」も美味しかった。
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by rev-umachan | 2010-01-10 05:18 | 個人セッション(ストーリー) | Trackback | Comments(0)
サンフランシスコ
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サンフランシスコという街は不思議な処だ。街自体が半島なものだから土地が限られていて、そこに住める人の数にも限りがある。だからここ数十年、殆ど人口が変わっていない。それでも次々と若くて新しい人々が流れてきては住み着いてゆく。歳をとって新しい波に乗れなくなってゆくと、街に住みづらくなり彼らの多くは街の外に出て暮らし始める。もちろん歳をとっても街が居心地が良くて長年住んでいる人達もいる。しかし、結婚をして子供を育てようとすると、街の環境はあまり良いとは言えなくなってくる。逆に言えば、子供が居ない独身者にとっては住みやすい環境なのだろうか。

街には霧が多い。夏場の霧は気温を下げてしまい、外を歩く時は革ジャンや上着が無いと寒いくらいだ。
海のある西から内陸の東へとゆっくりと、全てのストリートを流れてゆく霧は、まるで街を流れる動脈のようだ。霧が流れる時は、街が生きているように感じる。白い霧は、街にある全ての古い命を東側にある内海(ベイ)へと流しこんでいく。年老いて死んでゆく老人たちの命や、古くなった記憶や感情や感覚などの全ての思いが内海へと流されていく。
そうして古い命を流してしまうこの街は、新しい命やエネルギーを引き寄せていく。まるでこの街が生きていて、古いエネルギーを吐き出して、新しいエネルギーを吸い取っているかのようだ。

ハワイからサンフランシスコに引っ越してきた時、そこには一年ぐらい住んだ。それからサンフランシスコから車で一時間程の処へ引っ越した。そして、職場で知り合った女性と結婚した。

もうそういう歳なんだろうと思っていた時だった。がむしゃらに仕事の為の技術を勉強しているのに疲れていた頃だった。その頃には、もう自分は若くないと思えてきていて、仕事に疲れていた。その時の私には、もう若いエネルギーというのはなかった。
私は誰にも相談せずに彼女との結婚を決めた。もちろんルーにも相談しなかった。反対されるのが怖かったのだろうと思う。そう思っていたという事は、この結婚は上手く行かないとどこかで感じていたのだろう。


彼女との結婚生活が上手く行かなくなってきた頃、彼女を連れてルーに会いに行った。その時ルーは、「大丈夫よ。彼女とは上手くいくから、安心しなさい」などと言ってくれた。
しかし、やはり結婚は破局を向かえ離婚した。そしてまたルーに会いに行くと、「やっぱり離婚したのね。私は解っていたのよ」と言った。
「えっ。この間言った事と違うじゃないか」と私は思って彼女を見たのだけれど、その時の彼女の姿は自身に満ちていてやけに大きく見えた。
彼女には私の離婚が見えていたのだ。だけれども私には言わず、全く逆の事を言ったのだった。

その時、私はルーの大きさを感じた。身体の大きさではなくて、魂の大きさとでもいうのだろうか。「この人は本当にすごいサイキックなんだ」と思わないではいられなかった。
本当に大切な事とは、「見える事、解る事を伝える事」ではなくて、それよりも「相手の事を思って、魂の成長を願って物事を伝える事」なんだと、その時彼女から教わった。その為には時として嘘になる事を言うこともあるかもしれない。それでも、人を傷つけて気分が悪い思いをさせるよりは、幸せな気持ちにさせる事が大切なんだ、サイキックとは夢を与える仕事なんだと教わった。
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by rev-umachan | 2010-01-09 07:28 | 日常の情報 | Trackback | Comments(0)
ノブヒル
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久しぶりにサンフランシスコの街中を歩いた。夜9時頃、ノブヒルと呼ばれる地域、少し小高い丘のあたりを一人で歩いた。この辺りはわりと安全と言われている地域で、夜中にアジア人が一人歩いていてもわりと安心な場所だ。街灯も明るく、街を歩く人の服装も何となく小奇麗な感じだ。

カリフォルニア通りを歩いていると、「ゴォー、ガタゴト。ゴォー、ガタゴト」という音が聞こえてくる。通りの上を走るケーブルカーを引くケーブルが地面の中に設置されていて、その音が絶えず止まなく聞こえてくる。夜、そこの通りの歩道の上を歩くと、歩道の上に街灯が反射してキラキラと綺麗に見える。そんなケーブルの音と、光が反射して綺麗に見える歩道を見ると、20年前にサンフランシスコに来た当時の事がフラッシュバックのように頭の中に浮かんでくる。あの時もちょうどこんな時期、クリスマスの時期だった。

英語もろくに話せなくて誰も友人がいない街に、一人で片道切符を片手に飛行機に乗ってきたのが昨日の事のように甦る。初めての飛行機。初めての海外旅行。全てが初めての事だった。それでも不思議に不安は無かった。今考えると唯の無鉄砲だったと言えるのかも知れない。あの頃は若かったし、何が来ても怖く無いと思っていた。

今でも、あの時の判断が正しかったとか間違っていたとかは言えない。だけど、唯言えるとしたら、あの時アメリカに来る事無く日本で働いていたとしたら、今頃は違った人生を歩いていただろうと言う事だけだ。
その時、その場所でなければ前に進めない状況というのがあると思うのだけれども、あの時はそういう時だった。日本にいては出来ないと思った。そして、アメリカに来れるチャンスがあった。だから私はそのチャンスに乗った。そういう時だった。

人生には、時として自分の全てをかけて前に進まなければいけない時があるのだと思う。そういう時には、その時持っている自分の全てを賭けて、あるいは投げ出して進もうとしなければ前には進めない。自分の持っている情熱の全て、命の全て、そしてお金の全てを投入して前に進む。お金が足りなければ借金をしてでもその時のチャンスに賭ける。あの時、日本を脱出してサンフランシスコに来ると決心した時がそのチャンスの時だった。

そしてあれから、同じようなチャンスの時というのが私の人生には何度と無く訪れた。幾度と無く、真剣に考えなくてはいけない時がやってきた。「これでいいのだろうか。私の選ぶ道は正しいのだろうか」と深く考えなければいけない時があった。そんな時、ルーの言葉は私に勇気を与えてくれた。彼女の言葉だけが私を正しい道に導いてくれたと言っても過言では無い。

あれから20年経って、同じような状況に居るというのが面白い。住んだ事も、友人も居ない関西。唯一、何度か訪れた事があるというだけの亀岡の街。そこに住む事になった私がいるというのが不思議に思える。
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by rev-umachan | 2010-01-08 12:49 | 日常の情報 | Trackback | Comments(0)