軸足
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関西という場所に住むのは生まれて初めての経験で、どうもフワフワとして落ち着きが無い感じがする。土地勘というのも無くて、友人の車に乗せてもらっていると、いったい何処を走っているのか検討もつかない事が多い。車の後部座席に乗せてもらっていると、自分がまるで唯の空気になったような錯覚さえ覚える。

「今、何処を走っていて、何処に居るんだろう。此処は何処なんだろう。自分は誰なんだろう」などという思いが頭の中を駆け巡る。自己存在理由が不明確で、不確かになる。まるで自分の身体が空気の中に溶け込んでしまうような感覚だ。

初めての場所。初めての人達。初めての街。
雑踏の中を歩くと、自分が其処にいる人々、空気の中に溶け込んでいないのに気づく。そんな時、「私はまだまだ日本人じゃないんだ」と実感させられる。
周りの人達とは服装が違う。話す言葉も関西弁じゃないし、少し変なイントネーションの日本語を話している。でもそれは仕方が無い事だ。何年間も日本語環境の中に居なかったし、使っていたコンピューターも英語環境だった。手で日本語を書く事も無かった。

でも、そんな事は解っていた事だ。全て承知して日本に帰って来たはずだった。私が日本に住むというのが難しいだろうというのは解っていた事だ。それでも、私が習って来た事。勉強してきた事は絶対に日本の役に立つ。日本人の為になると信じて日本に帰ってきた。

「いったい、私の信じている事柄は日本で受け入れられるのだろうか。日本では、そのままの形では受け入れられないのではないだろうか」
そういう不安はあるし、そう思うのも当然なのだろう。自分の軸足がぶれて、「日本でも通用すると思うのは自分の思い込みじゃないんだろうか」と思う時がある。
それでも自分なりに日本に合う形を模索して、少しずつやり方を変えていって、自分なりの形を作り出していく。

「私も長い間、沢山のワーク、色々なワークを受けてきたけれどね。うまちゃんのセッションが今までで一番良かったよ」と言ってくれた人がいた。
「うまちゃんのセッションは、本当に良かった。自分というのが良く解った」と言ってくださる人もいた。そうして、少しずつセッションを受けた人が友人を紹介してくれるようになっていった。

「日本でも、私のワークは受け入れられる」という感触を九州でのセッションで得た。もちろん、私がしている全ての事柄が受け入れられてるとは思わないし、そういう意味では自分なりの形を作るという行為は続けなくてはいけないと思う。でも、「アメリカで私がしていたワークは、日本でも絶対に受け入れられる」という思いは間違っていなかったと実感した。

「アメリカに行かないで日本で働いていれば、今頃は家の一軒も建ってたかもしれないね」そう母が言った。その言葉を20年来の友人のNさんに話した時、彼がこう言った。
「一軒の家のために間違った道に行ってしまった人も多いことを考えると、少なくとも僕が見る限り、ウマくんは間違った道には行っていないのだから、自信を持ってもいいのではないかなと思ったよ」

軸足がぶれていると感じる時には、今までの過去を振り返る余裕がなくなる。私をずっと見てきてくれた人が近くにいて、言葉をかけてくれ、進む方向を示唆してくれるというのはありがたい。
日本での人との繋がりというのは優しくて暖かい。それは、アメリカにいる時にはあまり感じる事が出来なかった暖かさだ。その暖かさを感じる瞬間、私の心は温かくなる。そんな時、日本に帰ってきてよかったと心から思う。
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by rev-umachan | 2010-02-25 00:24 | 日常の情報
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