カテゴリ:絵( 4 )
「時計仕掛けのオレンジ」を観て (絵7)
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「時計仕掛けのオレンジ」

原作: アントニイ・バージェス
出演: マルコム・マクドウェル
監督: 製作・監督・脚本:スタンリー・キューブリック
公開: 1972年

(ストーリー)
暴力とセックスに明け暮れる生活をしていた主人公のアレックスは、殺人を犯してしまい、仲間の裏切りもあって刑務所に入れられてしまう。

「何とか早く出所したいんです。そして、残りの人生を良い行いをして過ごしたいんです。」と、刑務所にいた神父さんに話しかけるアレックス。

「良い行いというのは、うわべだけじゃ意味が無いんだよ。本当に良い行いというのは、神様がさせるものなんだよ。心の内側から沸き起こる気持ちが、良い行いをさせるものなんだ。」と、アレックスの心の中を見透かしたように話す神父さん。

そしてアレックスは、二度と犯罪をしないようにと洗脳される。その洗脳の方法とは、暴力的な映像や、戦争の映像を長々と、嫌というほど見せつけられるというものだった。彼は強制的に「映像」を見せられる事により、暴力やセックスに嫌気を感じ、暴力をふるいたくても出来ない体になってしまう。

しかし、自分の内側から湧き出た「絵」を見て悟る訳ではないので、彼はまるで社会の一部にはめ込められる機械のようになってしまう。その姿はまるで、自分の意思とは関係なく動く、「時計仕掛けのオレンジ」のようだ。そして出所したアレックスは、以前暴力をふるったホームレスや、昔の仲間達から殴る蹴るの復讐をされてしまう。

映画のラストシーンでは、彼は以前と同じように、自分の意思で考えたり行動したり出来るようになるのだが、以前の暴力的な人間に戻ってしまう。
それはあたかも、人間や社会の中に存在する悪は、いつまでも無くならないという事を暗示しているかのようだ。
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スタンリー・キューブリック監督作品の、「時計仕掛けのオレンジ」は、30年も前に創られた映画なのだが、今観ても新鮮さを感じる。

人間が以前犯した罪は、決して消すことが出来ない。自分がどんなに変わっても、それはカルマとなり自分に降りかかってくる。それはあたかも、「自分が犯した罪は、将来、必ず自分に帰ってくる。」という事を物語っているかのようだ。

以前、罪を犯したアレックス。彼は刑務所で洗脳され、悪い行いが出来なくなる。
しかし、以前被害を被った人達は忘れなかった。彼が無抵抗なのを良い事に、殴る蹴るの復讐をする。悪人は主人公のアレックスで、被害者だった人達は善人のはずだったのに、そこで立場が一気に逆転してしまう。私はそこに、人間の醜い嵯峨というのを見てしまう。

観る人によって色々と異なる事を考えるとは思うのだけれども、私はこの映画を観て、「人間の持つカルマ」という事について思いを巡らせてしまった。

ある人が、前世で悪い行いをしたとする。そしてその人は死後、あの世で「良い行いをするんだ。」と決心したとする。そして彼は輪廻転生して、次の世で、「以前悪い行いをした相手」に再び出会う。
その時、彼は復讐されてしまうのだろうか。「良い行いをするんだ。」と心に決めても、それは周りの人達にとっては許される事ではなく、復讐されてしまうのだろうか。

もし前世での悪い行いの為に復讐されてしまったなら、その人は前世の記憶が無いはずだ。だから、何故そのような悲劇に会うのか解らないだろう。そして同じく、きっと復讐する人にとっても、前世の記憶が無いため、何故そのような事をするのか解らないでいるだろう。それでも、理解出来ないなりにも、どこかにそれ相応の理由(カルマ)があるから、復讐をしたりされるのであって、偶発的にそれらの事が起きるのでは無い。

誰でも知らず知らずの間に、多かれ少なかれ罪を犯している。そしてそれがカルマとなり人に対して犯した罪が、いつか自分に返って来る。それと同じ様に人に対して良い行いをしたら、それもいつか自分に返ってくる。それらのカルマは、自分では理解出来ない、まるで複雑に絡み合った螺旋のようだ。
そう考えていくと、人というのはまるで、「カルマの中に閉じ込められながら、生かされている。」のだとさえ思えてくる。
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by rev-umachan | 2009-03-12 16:27 | | Trackback | Comments(0)
種と芽 (絵6)
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植物の芽は、地中にある種から生まれてくる。
種が無い地面の中からは、芽は生まれてこない。

当たり前の事だが、植物は種があって、そこで初めて芽が地上に出てくる。
しかし、地中にある種は、地表からは見る事が出来ない。
目えるのは、地表に出てきた芽だけだ。


植物の種と芽の関係と同じ様に、物事とは、何も無いところから発生したりはしない。
何か原因となる事があり、そこで初めて物事が発生する。
植物が育つのと同じように、物事とは、原因となる種があって初めて芽が生まれて出てくる。そしてやがて大きく育ち、良い結果、あるいは悪い結果とそれぞれの実を結ぶ。
その時、目えるのは結果となる大きく育った芽であり実だ。しかし、原因である種は見えにくい。

原因である種とは、すでに過去に起きてしまった事柄だ。
だから、消してしまう事は出来ない。
種は、表面には出てこなくて見えないかも知れない。しかし種がある限り、結果となる芽は、必ず地表の上に出てくる。

もし芽が大きく育った時、悪い結果を生むと解っていれば、芽が出ないで欲しいと思うのは当然の事なのかも知れない。
しかし原因となる種がある限り、結果となる芽は生まれてくる。
私は、その芽が大きく育ち、やがて大きな悲劇を生むのを、ただじっと見ている事しか出来ないのだろうか。

「芽が大きくなって育つ前につまんでしまう」という事が出きると聞いた。
地表に生えてきた芽が、大きく育って悲劇となる前に、つまんで取って捨ててしまうというのだ。

たとえば、悲劇が起きそうな人間関係を、事前に予知する。
そうして、その人間関係をすみやかに解消してしまう。
恋人や友人なら、すみやかにその交友関係を解消するというような事なのだろう。

しかし人間関係を解消しても、全ての問題が解消した訳ではない。
「芽」をつまんで取ってしまっても、「種」は地面の中に残っている。
「種」がある限り、「芽」は次々と地面の上に出てくる。

嫌いな人と人間関係を解消したと思ったのに、再び出会ってしまう。
嫌な物事には、何故か次々と出会ってしまう。
そのような現象が起きてきてしまうのは、原因となる種があるからなのだろう。

地表に出てくる「芽」を、次々とつまんで取って捨てていく。その行為を繰り返す。
そして、自分の身に悲劇が降りかからないようにしてゆく。
それはまるで、本来、種と芽の因果関係の間に居るべき自分を、その関係の外に出してしまうかのようだ。そして自分自身を、映画を見るように遠巻きに物事を見る状態にさせてゆく。
しかしそれでは、根本的な問題解決にはならない。複雑に絡み合った種と芽の因果関係を解決する、という事にはならない。
だけれども、この方法はこれで、悲劇から自分の身を避ける一つの方法なのだろう。


原因となる種がある限り、結果である芽は必ず生まれてくる。
その芽は、輪廻転生をして次の生に変わったとしても、必ず生まれてくる。

生を繰り返す度に、結果である芽は何度でも生まれてくる。
そして人は、生を繰り返す度に悲劇を繰り返す。
そういう現象を、「カルマの中に閉じ込められる」と言う。

何度も何度も、原因も解らずに同じ過ちを繰り返してしまう。それはまるで、結果である芽のみを見て、原因である種を見ていないかのようだ。
もし、原因となる種をよく見て分析する事が出来たら。そして、そこから生えてくる芽に正面から向き合える事が出来たら・・・。

過去に起きてしまった事は仕方がない。
もう既に起きてしまった事は、変える事が出来ない。
しかし、これから起きる事は変える事が出きるはずだ。

原因である種を、正面から見つめて解決してゆく。
そして、これから将来に起きる事を変えてゆく。

それは、痛みを伴う事なのかも知れない。
悲しくて、涙がとめどなく流れてくるような時もあるのだろう。
自分自身へのプレッシャーで、押しつぶされそうになる時もあるだろう。
むしろ、死んでしまった方が楽だと思うような、苦しい事に出会う時もあるかも知れない。

それでも、そうしなければ物事は解決しない。
そうしなければ、私は前に進む事が出来ないという気がする。
今は、この試練が私自身を鍛えてくれるのだと、唯、自分を信じて前に進むしかない。
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by rev-umachan | 2009-03-04 16:02 | | Trackback | Comments(3)
小さい頃の記憶 (絵5)
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私の記憶力はあまり良くない方だと思う。
小学生の頃、クラスの中で一番最後まで九々を覚えられなかった。
英語や国語のクラスでしなければいけない暗記も、一番出来なかった。
生物や歴史で覚えなければいけない事も、全然覚えられなかった。

そんな記憶力が無い私なのだけれども、小さい頃の記憶というのは沢山ある。
そしてそれらは、まるで昨日起きた事のように頭の中に残っている。
特に1歳前後の記憶は、鮮明に頭の中に残っている。

歩行器に乗って歩き回っていた頃の私。歳にしたら1歳前後ぐらいだったのだろうか。
歩行器の赤い色や、それに描かれていた漫画の絵柄、細かいデザインもはっきりと覚えている。
歩行器に座りながら食事していた私。
箸が上手く使えなくて、スプーンで食べていた。
そのスプーンのデザインも覚えている。
その時に食べた刺身の味等も頭の中に浮かんでくる。

一つの記憶を思い出すと、次々と他の記憶が再生されて、頭の中に浮かんでくる。
赤ちゃんだった頃、はいはいをしていた私。歩き始める以前の記憶が蘇る。

はいはいをして動き回れるのが嬉しくて、家中の何処にでもはいはいして動き回った。
その頃住んでいた古い家、そこには土間があった。
そこの土間には段差があって、赤ちゃんの私でも危ないのは解っていた。
その土間の上から、下にある地面をじっと見ていて、どうしても地面の上をはいはいしてみたくなった。
少しずつ、少しずつ、手を地面に伸ばしてみた。
そして、頭から落ちて、頭と身体を打って泣いた。


もっと昔の、寝ているだけの赤ちゃんだった頃の私の記憶。
赤ちゃん用のベットの上に、寝てるだけだった赤ちゃんの私。
天井の染みを飽きるまで見ていた。
天井からぶら下がっていた、電池でグルグル廻る大きなガラガラ。
電池がすぐに切れていた。
「電池が切れたよ」と、言葉にならない赤ちゃん語で人を呼んでいた私。


生まれた時の記憶。
生まれてすぐ、誰かの腕に抱かれた記憶がある。
そこには、父親、母親、そして親類の人達が居た。
幾つかの光も部屋の中に居た。そして、私の事をじっと覗き込んでいた。
今思うと、それは私のご先祖様達だったのかもしれない。
私の生まれてくるのを待っていたのだろうか。


もっと昔の記憶。
母の胎内にいた頃。
暖かくて、心地よく過ごした私。
自分の身体が段々大きくなって、出来上がってくるのが嬉しくて、意味も無く手足を動かしてみた。
嬉しかったけど、不安もいっぱいあった。


そして、もっと昔。
侍の格好をしていた私。
東北の田舎の家で生まれ育ち、子供の頃はいつも空腹で、柿ばかり食べていた私。
小さい頃から頭を丸めて、お経を読んで勉強していた私も見えてくる。


色々な記憶は見えてくるが、どれが本当なのだろう。どれが重要なのだろう。
今は、「どの記憶が重要なのか」というのは、気にする事ではないのかもしれない。
どれも私の記憶であって、その記憶が存在するという事は本当なのだから。
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by rev-umachan | 2009-02-24 16:41 | | Trackback | Comments(0)
絵を見る時 (絵1)
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絵を見る時、人は幾つかのプロセスを経て、「頭の中で絵を理解する。」という行為へとたどり着く。
絵は、絵の具の特性、ある特定の光りの周波数を反射するという特性を利用して、複雑に絡み合った色々な光りの周波数、色のシンフォニーを放射する。
そして色となった光は、人の目の中に入り、目の内側にある網膜を刺激する。そしてその刺激は、複雑な電気信号へと変化し、神経細胞を経て脳へと伝わる。

脳へと伝わった電気信号は、脳の中で現実にある絵を再現する。人は、その再現された絵を見て、分析し、理解しようとする。
その時、人は絵から得た情報と、自分が過去に経験した事柄を、照らし合わせようとする。過去の経験を通して、絵を見ようとする。
そうしてやっと人は、絵を理解する事が出来るのだ。

だから、人は絵を見ていながら、実は自分の経験した事柄を見ているとも言える。

人間は、自分の経験した事柄しか理解できない。
もちろん、テレビや映画を見たり、本などを読んで、それらから疑似体験する事は出来る。
しかしそれらの疑似体験も、ある程度の経験がなければ理解出来ないし、経験の度合いによっては疑似体験の理解度も限られてきたりする。

初対面の人に会って、話をする時の事を思い浮かべてみよう。
その人と何となく気が合わなかったりする。そうして、その人と話をしたくないという気持ちが出てくるとする。たいていの場合、その人とはそれっきりで、話をするのを避けるようになる。

その時、人は「気が合わない人」を見ながら、実は自分の経験した事柄を思い出しているのだ。
その経験は、心に大きな傷をつけるような、思い出そうとするだけで嫌な経験なのかもしれない。そういう場合、その思い出に蓋をして、思い出そうとしなくなる。

気が合わない人と話すだけで、昔の、痛い記憶が込み上げてくる。
だから、その人との間に壁を作り、避けようとする。

どうしても、その相手と話をしなければいけない時は、その人の話を聞くだけで、訳も解らずに怒り出したりする。
「この人はわざと、私が頭にくるような事を言っているのだ。」とも思えてくる。


その時に感じる、怒りという行為。それを分析してみる。
怒っている相手は、「気に食わない人」なのだが、よくよく考えてみよう。
何故、その人に対して怒っているのだろうか?

その「怒る相手の人」を見ている自分がいる。そして、その人を理解するために、過去の経験から記憶を引き出そうとしている自分がいる。何故そうしているかと言えば、その人を理解するためには、自分の経験を照らしあわせなければ理解出来ないからだ。

相手を理解しようとする時、自分が思い出したくない記憶が蘇ってくる。だからその人を見ると、自分の心が痛くなってくる。

その時、怒りという感情が前面に出るのは、一時的ではあるが、怒りによって痛みを忘れる事が出来るからだ。そして、痛みを感じる前に、その痛みの元凶である記憶の上に蓋をしてしまう事が出来るからだ。
だから、「気が合わない人」に出会うと、怒り出してしまう。

そうやって人は、痛い記憶の上に蓋をしてゆく。
しかしそういう、「痛い記憶の上に蓋をする人」に限って、「気の合わない人」に多く会うようになっている。そうして、何度も怒ってしまう。
怒りという感情を前面に出して、自分の記憶の上に蓋をしてしまう人は、遂には、「何重にも蓋の上に蓋をしていくという行為」をしないと、気がすまなくなってくる。

「気が合わない人」に会うと、怒って、記憶の上に何重にも蓋をしていく。そうしているうちに、何度も何度も怒るようになってくる。
そして遂には、自分がいったい何に対して怒っているのかが解らなくなってゆく。
「自分の心の痛みを感じないで済む。」という理由の為だけに、怒りという感情を前面に出すようになってしまう。

「歳をとると怒りっぽくなって、忘れっぽくなる。」というのは、そういう「痛い記憶に何重にも蓋をする行為」のせいなのかもしれない。
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by rev-umachan | 2008-12-25 15:48 | | Trackback | Comments(0)