人気ブログランキング | 話題のタグを見る
粉河
粉河_f0171365_10344239.jpg


「和歌山で地震があるかもしれない・・。そしてもし地震が起きたら、日本は壊滅するかもしれない。」
去年の秋、友人のHから受け取ったメールには、そう書いてあった。
和歌山は行った事も無い場所だったけれど、彼が私に投げかけてきた言葉は、「和歌山に行かなければ・・」という気持ちこさせた。そしてそのメールには、「紀ノ川」という川の名も書いてあった。

紀ノ川というのが何だか良く解らない。ネットで調べてみると、それは奈良から和歌山県を通って瀬戸内海まで流れる大きくて長い河の事だった。その河は和歌山の北、高野山のふもとから、南の和歌山市まで流れていた。

そしてその紀ノ川に沿うように大きな断層、「中央構造線」があるのも解った。葛城山脈と紀ノ川のちょうど中間を、南北へ流れている断層、「中央構造線」。その断層は奈良県の葛城山のあたりから始まり、瀬戸内海の海底を越えて、なんと徳島県まで繋がっていた。友人はそこに地震が起きる可能性を危惧していたのだった。ネットで調べてみると、確かに「中央構造線」に地震が起きる可能性を言っている何人かの専門家達もいるようだった。

そのメールを受け取ってからしばらくしてから、
「徳島県の天津神社でお祈りしていた時、あなたの事を想いました・・。中大兄皇子という名も想いました。」
というメールを頂いた。そのメールはたった数行だった。恐らく彼は、天津神社で聞いた言葉をそのまま、山の上の神社から徳島に戻ってきてからすぐに、携帯から送ってきたのだろう。
彼に深い意味を聞こうにも、はるかかなたの海の向こう、地球の反対側にいるのではそれもままならない。
彼は中央構造線の流れている徳島からメールを送ってきた。そして私に何かを伝えようとメールしてきた。その事に、私は何か深い意味を感じていた。
メールに書いてあった中大兄皇子(後の天智天皇)と言う人も、実は中央構造線の始まる葛城山界隈に住んでいた豪族、葛城一族の一人で、幼少の名はまさに葛城の皇子と言って、彼も深く中央構造線に縁のある人だった。
私は日本に帰る事にした。行って、日本、和歌山、そして中央構造線に何が起きているのかを確かめたかった。

そうして私は昨年の11月に、和歌山県の紀ノ川沿いにある粉河、粉河寺という処へ行った。此処も中央構造線が流れている真上だった。これが私の初めての和歌山県入りとなった。
和歌山の地で初めて降りた場所は粉河となったが、その意味はその時は解らなかった。それが後になって大きな意味を持ってくるという事は、その時は解らなかった。
# by rev-umachan | 2009-08-15 11:34 | 自然
教えるという事
教えるという事_f0171365_5493123.jpg

Berkeley Psychic Institute というサイキック学校で、ハウス・コントロールというのを2年以上していた。それは、学校に来る生徒達の瞑想を教えたりリードしたり、学校に訪れるお客様たちへの対応などをするボランティアの仕事だった。
人に何かを教える事など、小さい頃から好きでも得意でもなかった私だった。しかし、これが教え始めるとなかなか面白い。生徒達に教えているのに、逆に生徒達から教えられ、学ばさせられていると感じる事が多々あった。

私の生徒達は大人達で、社会人達だった。彼らは思った事や心の表面に浮き上がってくる感情を、先生である私に直接ぶつけてきた。そういう激しい感情に対して、私は退く事もしばしばだった。どう対処して良いか解らずに、立ちすくむ事もあった。クラスが終わってから家に帰って、「あの時、こうすればよかった。ああすれば良かった」と悔しがる事も何度もあった。始めてから一年以上経た頃も、「私は何て未熟なんだろう」と痛感する事ばかりだった。

それでも、真剣に私の言葉を一言も聞き逃さまいと耳を傾ける生徒達がいた。そして彼らの魂が成長したと感じた時、何にも変えられない幸せな気持ちになったものだった。2年間という長い間、生徒達の前に立って教える事が出来たのは、その幸せな気持ちを感じる瞬間が幾度と無くあったからなのだと思う。

人に何かを教えるという機会は、私の今までの人生の中では無かった事だったし、出来る限り避けていた事でもあった。それを半ば強引に引き込み、生徒達の前に私を立たさせ、教えるという経験をさせてくれた恩師。彼女はしばしば夜中の12時頃まで、私のクラスの反省会に付き合ってくれた。そして私のティーチング・スキル向上の為に真剣に話をしてくれた。そんな彼女に今では感謝している。無給のボランティアだったけれど、私はサイキック学校の先生になるという経験を通して、他のどこにでも勉強できない事を学んだ。

それが今年の春、その教えるという行為を一旦止める決断をした。一時休憩をする事にした。
昼間は普通に会社で働き、週に1~2回とは言え真夜中まで学校で過ごす。そういう生活を2年以上続けてきた。生徒だった時の期間を含めると、実に5年以上という長い期間、学校で多くの時間を過ごしてきた。そういう生活は、さすがに精神的にも肉体的にも疲れてきた。とりあえず一旦休憩して、自分の為に時間を使い、今後の自分の身の振り方を考えようと思った。
# by rev-umachan | 2009-08-06 05:53 | クラス・スケジュール
瀬織津姫のいる処
瀬織津姫のいる処_f0171365_8461657.jpg


その神社は、京都から車で一時間ぐらいの処にあった。
大通りから外れ、大きな川に架かる橋を渡ると、そこにそれほど大きくも無い神社があった。雨上がりで曇っていたせいだろうか、境内は湿っていて暗く感じられた。そしてそこへ入ると、とたんに私の頭が重くなって、痛くなってきた。
「ほう。ここが私を呼んだらしい」
私は、そこへ来た意味を何となく理解した。

そして、私はお祈りを始める。
綺麗な着物を着た女性の姿が見えてきた。瀬織津姫という、其処で祭られている髪の長い、綺麗な女性の神様だ。
「私は周りにいる者達が邪魔で、思い通りに身動きが出来ないのです」そう声が聞こえてくる。
そう言われて境内の中を見渡して見ると、小さな黒い霧のような塊が幾つも宙に浮かんでいるのが見える。一つの塊は1メートルぐらいの大きさはあっただろうか。それが幾つも宙に浮かんでいる。

私は頭の中で、一つずつ黒い霧を選んでは境内から取り外していく作業を始めた。一つずつ、丁寧に、取り外しが無いように外していく。
そうして三つ目を外した時、黒い霧があったその場所から突然、「バサッ」っと、大きな音が聞こえた。
それは、大きな木の枝が地面に落ちてきた音だった。それはまるで、私の消した黒い霧の抜け殻のようだった。
その落ちた枝を良く見ると、切り落とされた鬼の手のような形をしていた。そしてその指のような枝の形が指している方向を見ると、そこには小さな祠があった。
それは、「その祠に行け」という印だったのだろう。

その祠に向かおうとすると、「もうこれで十分だろう。お前は結構がんばった。もうこのまま帰った方がいいんじゃないか」と言う声が聞こえた。
私がいくら頑張って黒い霧を外しても、それらは数限り無く存在しているように思え、私はその時諦めかけていた。「もうだめかも知れない」という気持ちが頭の中をよぎっていた。

そう思いながらも、とりあえず祠の処へ行くと、それは猿田彦神を祭っている神社、祠だった。
そこでお祈りをすると、「もうだめかも知れない」という気持ちは何処かへ消えてしまっていた。猿田彦神が助けてくれたからだったのだろうか。
そして心の中に、「もう一度やらなくては」という強い気持ちが湧いてきた。

もう一度、瀬織津姫の御前に立つ。そして般若心境と観音経を唱えさせていただく。
それに伴って黒い霧は少しずつ消えていく。それでもそれらの全部はなかなか消えないでいる。

「おまえは甘いんだよ。もう諦めた方がいい」と言う声が、宙から聞こえてくる。
「まだ、自分の中に甘いところがあるんだ。だから負けているんだ」そう私の心の奥から声がする。
「このままじゃ駄目だ。自分自身を良く見ろ。自分の心を良く見るんだ」と、自分自身に言い聞かせる。
そして、私は自分の心の奥深くを見つめていく。地球の上に立ち、天と地の間に存在する自分自身を大きな視点から眺めていく。

そして私は、天の龍と地の龍にお願いをする。すると赤い地の龍が、地の中から昇ってくるのが見えた。足の裏から地球の熱いエネジーが昇ってきて、つま先から頭の上まで熱くさせた。
その熱くて赤いエネジーは、どんな重くて暗いエネジーをも焼き尽くしてしまう力を持っていた。そうして、宙に浮かんでいた黒い塊たちは全て消えてなくなってしまった。

「ふう。やっと終わった。こんな相手に、こんなに手こずるなんて」
何とか自分の役割を果たす事が出来たとは言え、自分自身の甘さが浮き彫りにされた出来事だった。
「このままでは先が思いやられる。何とかしなくては」と痛感させられる。
そして境内を去る時、「未熟者」と、頭の隅の方で小さな声が響いた。


http://www.genbu.net/data/oumi/sakunado_title.htm
# by rev-umachan | 2009-08-01 09:09 | ハウスヒーリング
弟殺害容疑で男逮捕 - 高瀬舟
弟殺害容疑で男逮捕 - 高瀬舟_f0171365_2392891.jpg


「殺してと頼まれた」弟殺害容疑で男逮捕

(4月1日10時56分配信 産経新聞)

 同居していた弟を殺害したとして、警視庁亀有署は1日、殺人の疑いで東京都葛飾区東金町、建築作業員、関信保容疑者(61)を逮捕した。同署によると関容疑者は犯行後、自宅近くの交番に「弟を殺した」と自首した。

 同署の調べによると、関容疑者は3月31日午後11時25分ごろ、自宅アパートで弟の無職、敏和さん(46)の首をタオルで絞めて、殺害した疑いがもたれている。

 同署によると、関容疑者は敏和さんと2人暮らし。「弟は統合失調症で1月から仕事をしていなかった。治療に高いお金がかかるため、今後の話をしているうちに『自分では死ねないから殺してくれ』と頼まれた」と供述しているという。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090401-00000520-san-soci
-----------------


このニュースを読んで思い出したのは、森鴎外著の高瀬舟だ。
ハワイの大学に行っていた時、日本語文学のクラスを取った。その時、教材として英訳された高瀬舟を読まされた。英語で読んで日本語で感想を書くという日本語訳の勉強だった。その時の原文と英語訳の両方を読み、どちらもとても綺麗な文章だったのを覚えている。
兄弟殺しという暗いテーマを描きながら、川の流れや美しい自然を描く事でこの世での命のはかなさ、生きる辛さなどを描き、そして人の命を自然の摂理の一部だと、詩のように描く視点は流石です。

結局の処、兄弟間の事は本人しか解らない。殺人を肯定する訳ではないが、報道される事はほんの一部であって、どういう経緯があったのかは推測するしかなく、一概にこのような殺人を犯した人を責める事は出来ないのだと思う。

しかし高瀬舟のテーマに使われた事件があった時代は、経済的にひどい時期だと思っていた。同じような事件が発生するというのは、今もそのひどい時期の再来なのかと実感させられる。


高瀬舟
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/691_15352.html
# by rev-umachan | 2009-04-02 02:47 | 日常の情報
マヤ・リン
マヤ・リン_f0171365_9254487.jpg


マヤ・リンというアメリカの建築家の軌跡を、数年間に渡って撮影したドキュメンタリー映画を観た。マヤは、建築家でありながら人の生や死について思慮が深く、映画を観る人の心を打たずにはいられない。

彼女を一躍有名にしたのは、ワシントンDCにあるベトナム戦没者の為のメモリアル(記念碑)のデザインだった。

57,661人という多くの戦没者を出したベトナム戦争は、1975年に終わった。それから5年という長い時間を経てアメリカ政府はベトナム戦没者の為のメモリアルを製作する事にした。カーター大統領が書類にサインをしてメモリアル製作プロジェクトが開始した。そして、メモリアルのデザインは一般公募となり、1441名という全米中の有名、無名のデザイナー達がデザインを応募した。その途方も無い競争率の中から唯一つ選ばれた作品が、マヤ・リンのデザインだった。彼女はその当時、20歳という若さで、まだエール大学で建築を勉強していた学生だった。

彼女は、パステルで描いた淡いスケッチを応募した。しかし彼女はスケッチだけでなく、そのメモリアル製作コンセプトをエッセイとして表現して同封した。そのエッセイは、聞く人の心を動かし、感動せずにはいられない。


「メモリアルの目的を考えた時、それは個人的なものであって、政治的なものであってはならない。死は個々の問題であって、メモリアルは静かに死を受け入れられるような静かな場所になくてはならない。
メモリアルは、そこを訪れる人に悲しみや苦しみを与えるのが目的ではない。
そこを訪れる人に、胸に抱いていた痛みや悲しみを、死を受け入れさせる事によって過去の出来事と認識させ、未来への希望と生きる力を与えさせるのが目的なのだ。」


マヤが書いたエッセイは20歳の学生が書いた物とは思えないほど深い思慮があり、多くの人達の心を動かした。
しかし、彼女が若いアジア人だったという事が、退役軍人達の反感を買う事になってしまった。ベトナム戦争で命を亡くしていった人達の多くはアジア人であるベトナム人に殺されていたから、すんなり受け入れられなかったという理由もあった。それに反戦の気運が高かったその頃は、退役軍人達の多くがアメリカ社会では歓迎されていなかった。ある軍人は、戦争から帰ってきて空港で受け取ったのは、紙袋に入った糞だったと言っていた。そんな時勢だったから、メモリアルの製作決定するのにも時間がかかった。
行き場の無い退役軍人達の怒りは、歳若いアジア人のマヤに向けられてしまい、彼女のデザインもすんなりとは受け入れられない。彼らはデザインの変更を要求するが、マヤは頑として自分のデザインの変更を承諾しない。その時のマヤの話す言葉は、力づよく聞く者を感動させる。


「私達の命、時間には限りがあるが、私達の創造した建造物や文章は永遠で、未来の世代へと受け継がれる。そういう私達の創造物を通して、私達は時を越えて未来の人達とコミュニケーション(会話)をする事が出来、彼らに新しい創造を起こさせるのだ。」



(DVDの情報)
Maya Lin - A Strong Clear Vision (1995)
Starring: Maya Lin Director: Freida Lee Mock
http://www.amazon.com/Maya-Lin-Strong-Clear-Vision/dp/B00008PHD1

(ベトナム・メモリアルの情報)
The Vietnam Veterans Memorial Wall
http://www.thewall-usa.com/
http://www.thewall-usa.com/wallpics/dadsgirl.htm


(イラストは上記のページからです)
(Photos are Protected under US and International Copyright Laws Some are Copyrighted by The Vietnam Veterans Memorial Wall Page others are copyrighted by their respective owners.)
# by rev-umachan | 2009-04-01 09:25 | 日常の情報